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天国と地獄

2020/7/12

残念ながらまだ死んでいないので、死後の世界については何も語れないけど、勝手に考えることはできるので、考えてみる。
子供のころは、いいことをしていると世界もいいものになっていき、悪いことをしていると生き辛くなっていくよという先人の知恵の結晶が、天国地獄という言葉を生んだんだろうと考えていた。
けれど、年を取って考えてみると、死んだこともないのに人の考えを自分勝手に否定するのは傲慢だと思うようになり、自分の考えでは、という言葉を前につけて話せばいいだけなんだと、少しだけ賢くなった。

それで地獄とはなにか。

場所か、心境か、状況か、それとも地獄界とでもいうのか、こことは違う人の頭では考えることもできない別のなにかなのか。
とっかかりとして、なぜ地獄や天国が生まれたのかを考えてみるところから入ってみたい。
臨死体験、というものはあると思う。走馬灯を見るとか、お花畑で死んだ人が呼んでるとか。たぶんそれは普段の思いや経験が呼び出されて見たものなのだろう。人はそういう風にできているんだろう。
たぶん死んでない人がお花畑の向こう側で手を振ってた、なんて経験をした人もいるはずだと僕は思う。記憶の中には死んだ人も生きてる人も等しく存在している。
死にかけて、こことは違う世界に行って死んだ人に手招きされたなんて話はインパクトがすごいからよく語り継がれるはずだと思う。
死にかけて病院のベッドで目覚めたときに「死にかけてるとき、なんか休憩所でコーヒー飲んでる映像を見てた」という言葉よりはドラマを感じる。
そうするとスピリチュアルや難しい脳科学の話を持ち出さなくても、天国や地獄はある。例えばその経験は普段の夢の中でもしているはずである。何も大けがをしたり、不治の病にならなくても人の意識は毎晩寝るときに一度消えているのだから、そのあと目覚めなかった、という可能性がない人はいない。毎晩人は臨死しているのだ。

夢には何を見るか。普段の経験や思いの断片がなんかごちゃごちゃと出てくるんじゃないかと思う。
そこで考えてみる。天国がいいところ、地獄が悪いところ、と考えてみる。
でも人によっていいところ悪いところは変わってくると思う。人に殴られたり、なじられることに快感を得る人もいるだろう。たぶん。
そこまでくると行きすぎだとしても、良いと思えるもの、あるいは何かがあってそれを良い方に転がしていける技を多く持てば、天国の範囲が広がる。

いろいろと考えてみると、夢と天国地獄は同じ成分でできている。いい夢見たいなら普段からニコニコいいこと考えていい人生になるよう頑張って生きるのがいい。
すると、天国とか地獄とかというものを間に挟むまでもなく、今ここでどう生きるかを考えるのが一番有効な思考なんではないかと、ありきたりな答えが出てきた。
バカの考え休むに似たりと言うが、死んだことないのに天国地獄を考えるのは僕にはかなり難しい話だった。
考えて疲れてる分きっと僕はバカより下なんだろうね。僕の考えでは。

人は娯楽に何を求めるか

2020/7/11

娯楽というものの範囲が、人によってさまざまだと思う。
仕事を娯楽と思っている人もいるだろうし、例えば子育てが人生の最大の娯楽だと考える人もいるだろう。
娯楽という言葉の意味が定まっていないと、話が始まらない。

調べてみると、娯も楽も、楽しむという意味らしい。心が高揚する、わだかまりなく晴れやかな気持ちになる、笑う、良い気持ちになって没頭する、そんな感じだろうか。
僕のケースで考えると生きることそのものが娯楽で、死ぬほどつらい思いしたりしても、振り返ってみると笑い話になっていて、その後の人生はそれまでよりも充実したものになっている。
もちろん楽したいし、いい思いだけして生きたいと思うものだけど、それはエンディングのない映画を見続けてるようなものであったり、敵のいないピッチでサッカーをし続けているもののようだったりするのではないか。
困難という節があるから、娯楽に確か手ごたえが出てくるのだと思う。
生きていろんな経験をする、もちろん映画を見たり、人の話を聞いたりして疑似体験することでもその経験は積み重なり、その後の娯楽の質を高めるものとなると思う。
足踏みしてないで前に進み続ける。娯楽にはそんな要素が必要で、そのためには自分の体や頭を動かして、新しいことをやっていくのが大事なんだろうなと。

結論、人は娯楽に成長・向上を求めている。
その一番手っ取り早くて、劇的なのが、自分が成長しちまえばいい、ということなんだと思う。